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ブログの引っ越し

 ブログのアクセスが重くて、ご迷惑をおかけしました。新天地に引っ越ししました。

 新しいURLは、

http://shirayuki.blog51.fc2.com/

です。

 記事は徐々に新しいブログサイトに移して行きます。ただ、コメントは移せないので、こちらも当分は残しておきます。

 お手数をおかけして申し訳ありませんが、リンクやブックマークの貼り替えをよろしく御願いいたします。


西武線を体でとめるくらいなら

大して長い間ではないが、教壇にたってから今にいたるまで、ウン年間、
その間さまざまな学生が私の目の前を通り過ぎていった。

学生はいつも二十代前後、あたかも定点観測の杭のようにわたくしはこの流れの中にたってきた。

で、ここ数年気がついたのは、精神的に危機的状況を抱えた学生が激増したということ。

大学内にある無料のカウンセラーは門前市をなし、そこで救えなかった学生は西武線を体で止めると同時に、そのまま人生をとめてしまう。

いわゆる心療内科に通うほどの深刻なものでなくとも、多くの学生は漠然とした不安や人間関係にまつわる悩みを抱えており、少し親しくなった学生はみな一様に生きづらさを訴えてくる。

こんな豊かな時代に育ち、最終学歴が早稲田ならそこそこのところには就職でき、親にもできあいされているのに、彼・彼女たちは精神に危機を抱えているのである。

彼らの姿を見ているとわたしは青年期の釈尊を思ってしまう。

お釈迦様は釈迦族の王子の身分に生まれ、何不自由なく育ち、親に溺愛されて、美しい妻と大勢の女官に囲まれ、これは並の男だったら一生かけて手に入れたいと思うような環境である。にもかかわらず、

釈尊は29才の年に、老人・病人・死人をはじめてみて、人生の本質に気づいちゃう。親が甘やかして汚いものをみせないようにしてきたのがかえって逆効果となり、お釈迦様、いまでいう鬱になってしまいます。それから人生の苦しみについてもんもんと悩みます。

そして、この世の富や名誉は何も自分の苦しみを救うものではない、と気づいたお釈迦様は「出家するんだ~」と、城の東の門から愛馬カンタタにのって飛び出したのでした(わたくしの好きなシーンである)。

そして、お釈迦様は髪を下ろして出家すると、六年の間、自分の体を痛め付ける苦行を行い、六年目にその苦行も今までの快楽生活の極端のまた別の極端であると知って、その苦行を捨て、命をかけた最後の瞑想でいわゆる「悩みのない境地」(サンスクリットでニルヴァーナ漢語で涅槃です)に達したのである。

ここで気をつけていただきたいのは、富や名声や地位が自分を幸せにしないと鬱になるのは、すでにめぐまれた環境にある人がはじめていだく感情だということ。

貧しい家庭に生まれた人は、綺麗な家にすみ、美味しいごはんを食べることだけを目標に人生をおくる。そして、富や名声を手にすることで幸せになれると思う(あくまでも本人意識で幸せということ)。彼らにとって、老いも、病気も、また死ぬようなことがあろうとも、それが自分の目の前にくるまで考えないのであり、ただひたすらがむしゃらに「上を」「No.1を」めざすことで人生を過ごすことができる。この修羅の道では、何か考えているヒマはたぶんない。

しかし、お釈迦様は生まれた頃からすべてをもっていた。そのため物質的な繁栄を追い求める必要はなく、精神の安寧を得るために修行を始めたのだ。

今の学生といえば、長年にわたる平和で安定した社会により、子供には身体の危険はほとんどなく、教育を受けた親は子供にお金と愛情をイギアスの滝のように注ぎ込み、一億総出家前のお釈迦様状態である。しかし、彼らには就職をして社会にでるという現実が待っている。お釈迦様は王様(社会)になる前に、出家することにより、精神の危機をのりこえた。

しかし、現在の日本の社会には古代インドのような出家システムがないので、世界から出て行ってしまう→西武線を体でとめる、ことになってしまうのである。
そこまで深刻でない学生は、何かすがりつけるもの依存できるものを探す。ネットの中の人間関係を拡大することで孤独感をいやしたり、パチスロゲームにはまったり。

でだ。本題に入りますが、出家前のお釈迦様と現代の悩める学生はかくまで構造的に似ているとすれば、仏教思想によって、このような学生も多少は救われるのではないかと思うのである。

お釈迦様は覚りを開かれた時、苦しみついての四段階の考察である四聖諦をおときになった。

この世は苦しみである(苦)
この苦しみの原因はおのれの心の中にある悪い性質である(集)
この悪い心を滅することで苦しみもなくなる(滅)
悪い心を滅するためには八つの正しい行いをすることである(道)

社会はキタナイし、人間もそして、オノレもキタナイのである。しかし、それをキタナイと思い、責める心はオノレから発しているのである。お釈迦様は、その心を滅したことにより、キタナイ社会やキタナイ人間の心を嫌悪の心で見ることはなくなった。中立の心でもっと高みから見下ろすようになったのである。

悩みがなくなってからの釈尊はみるからに美しく、堂々としており、説法の前にはにっこりするなど、とても幸せそうiに見えたと経典にはのってます。見たわけではありません)。

仏教ってほんとすばらしい。

学生が仏教思想にふれることによって、そこまでいくのは無理にしても、もっとキタナイものをキタナイものとして気にしないくらいの強い精神力をみにつけてもらえるのではないかと思うのである(あくまでも希望的観測だが)。

何かうまくいかないことがあると、人はすぐにアイツ(親・教師・上司)がわるいと自分より強い立場にあるものに責任を転嫁するのであるが、そのようなことをしていても人としての成長は見込めない。批判する相手にとらわれ、そこからぬけだせず、同じ失敗を繰り返していくだけである。根本的な原因、すなわち自分の心をよくしようという行為を放棄しているからである。

しかるに、仏教はオノレの悪い心に原因をもとめる。きわめて論理的ではないか。

仏教ってじつはとってもモダンでハッピーな教えなんですよ。


ぶろぐを書くということ

ぶろぐをはじめてはや一ヶ月。トラックバックのはりかたは相変わらすわからないし(迷惑トラパの消し方だけは覚えた)。

ダンナが心の底からマイクロソフトを憎んでいることからブラウザエクスプローラーではなくMozillaを使っているため、文飾もままならない。

この一ヶ月をめどに、ブログについて気がついたことについてまとめておきたい。わたしはじつはプライベートでもここ十年ほど日記をつけている。しかし、こちらには私の一日のタイムスケジュール(偉そうにいってるが、たとえば今日は「ごろ寝」としか記されていない)や史料を読んでいて気がついたこと、論文の進捗状況、愛息子たちの動向(愛鳥ごろうと愛猫餓鬼道の一日)が、だらだら記録されている。誰が見るわけでもないから、文飾もしない。こちらには真の私の人生が、そして私の誰憚ることなく言いたい放題かかれている意見がみちみちあふれているのだ。このプライベート日記こそがまさに私という人間を将来において再構成・評価するための一級の資料なのである。

一方、ぶろぐは読者に読みやすかれと、エピソードは一つにしぼる。このエピソードについては、他人に迷惑がかかるようなものを避けると、やはり自分&ダンナ、ネタが多くなる。そして、読者ウケしそうな自分ネタといえば、失敗ネタしかないので、その結果自分で読み直しても「私はこんなアホだったのか」と思い知らされる文章が並ぶこととなる。

つまり、ぶろぐを読んている方には、私という人間が、じつは非常に勤勉に研究に取り組み、かつ、まじめに仏教について考え、かつ、同時に学生の自主性を尊重し、つとめておしつけがましくなく行動しようとしている良心的な教師であることは、まったく伝わらないのである(自分でいうか)。

このぶろぐはしたがって、私の生活や人間像や意見のごく一部であり、これを歴史資料として私という人間を再構成し評価するのは危険である旨を一言しておきたい。


アップル神話のごとく(なるといいなあ・・・)

いよいよ、本日は早大仏青しきりなおし初会合。
意図していなかったが、今日は立春である。
そう思ってみると、風は寒いが日差しはまぎれまなく春のそれ。
きっとこれから春になっていくにつれ、仏青も何もかもよくなっていくだろう(希望)。

さてさて、学生会館に入ってみましょう。
全館カードキー・暗証番号で管理されているようですね。フロントもついていてなんかリッチな雰囲気。早稲田も学生サービスがんばってるのう、といったらサークルへの補助金は削減されていますとツッコミが・・・。

なぜかお隣さんはマル○ス主義系サークル。何かの嫌がらせか。
さあ、いよいよ部室に入ってみましょう。

みまわすと、まず目につくのは仏青OBが自ら作成した仏像をおまつりした仏壇。そして、仏教書をおく書架。

仏壇の向かい側の窓際には聴取料を払っていないにも関わらずNHKの衛星放送が受信できるテレビがおいてある。貧しい仏青に対して仏がお慈悲をたれたもうたのであろう。

なかなかいい雰囲気。
で、肝心の部員はといえば、

三人しかいねえ!

まあ、予想してましたがね。
みんなでまんじゅうを食べながら今後の方針を話し合う。

さあ、みなさん気になっていたでしょう? わたくし白雪姫が提案する、新入生女子ゲット作戦について大公開!!

入学式の日講堂の前で、部員みずから墨染めの衣をきてサークルの広告塔になるのだ! 、そして、在俗の部員は集まってきた女の子たちに仏青のチラシを配りまくるのだ!

僧籍を持っている学生がいるので、こういっては失礼かもしれないが、気持ち的にはコスプレ大作戦。 その非日常性によって数ある他サークルをごぼう抜いて女の子をゲットするのである。

僧籍をもつ学生でも、洋服をきていたら普通の大学生。しかし、墨染めの衣をきると、あーら不思議、ぐーんと男っぷりがあがるのである。墨染めの衣は神聖不可侵な禁欲的な雰囲気をもち、これはおもしろいくらい女心をつかむはず。

女の子が集まれば、自然と男の子も集まってくる。
まあ、ダマされたとおもってやってみてごらん。

(ちなみに、今日小坊主の一人センくんより、先生のぶろぐはよきにつけ悪しきにつけあけすけですね、と暗にあきれられた。気をつけなきゃ)

わたしも平安時代の尼のコスプレをしようかと思ったが、僧籍もってないし、ダンナより「あなたは先生でしょ? どーんと構えていないと、かえってサークルの評判をおとすよ」と至極真っ当な意見を言われたので、やめておく。

さあ、たった三名の会議から何がでるか。残りの部員は協力してくれるのか? 
Macオタクのわがダンナによると、スティーブ・ジョブスが世界になだたるアップル社をはじめた時には、たった二名。しかもガレージである。仏青は部室があり、部員が三人もいる時点で、すでに創業時のアップルに勝っている(何の比較にもならんという話は却下)。

さあ、仏青よ、アップルのように飛躍せよ。


仏教青年会フェニックス計画

今度の土曜、部室で集まれる人だけ集めて会合をすることとなった。
白雪姫が学生でもないくせに学生会館にどこどこ入っていき、オブザーバーとして初会合を監視×→参加することは言うまでもない(部員諸君はさぞやメーワクであろう 笑)。

これまで、部員諸君に現在の停滞状況のよってきたるゆえんについて聞き込み調査したところ、だいたい以下の問題点が浮上した。

1. 女性部員がいないがゆえに、活動がもりあがらない。

解説: 仏教に興味をもつのはほとんど男性。したがって、仏青は野郎一色となる。しかるに、一般の学生がサークルに求めるのは、ゼミやコンパや合宿を通じて男女の部員が明るくフォーリンラブすること。野郎しかいない仏青の活動はおのずと低調となる。

2. その男性部員は各々の興味とするところにひきこもり、相互の交流もない。

解説:お坊さんの子弟場合には自宗派の青年部の活動もあるので、二足のわらじをはくのは大変。

3. ヘタに歴史があるため、新しいことをやろうとしても伝統にさえぎられる。

解説:一度、仏教青年会という名称がダサイので名称を変更したいと申し出たところ、なぜか教授会で却下されたという(笑 歴史あるサークルは名称変更も教授会の承認がいるらしい。サークル活動なのに現役の学生の力はないらしい 笑)。

この三つの問題について以下の対策を講じるのはどうだろう。

1.については、→ 四月に大量の女の子新入生をゲットする。それについては白雪姫に秘策がある。

2.については、→ 部員同士が共通のテーマ(超宗派)をもってある一つのテーマを追求することによって、相互の交流促進をはかる。テーマについては姫に秘策がある。

3.については、たしかにこの名称はダサイが、もうこれは共産党と一緒で、変更はむりだろう。したがって、この伝統と歴史を前向きにとらえるしかない。大学のサークルの中には、特定の政治思想や宗教を布教するためのダミー・サークルというものがあり、新入生や学校当局に畏れられているが、仏青の119年の伝統は新入生にも社会にも安心感を与える。それを積極的に活用して、新歓や仏青の活動の宣伝に使わせていただく。

新入生歓迎にあわせて、仏青の歴史を書いたチラシをつくって配布するのもありだ!

どうせ、落ちるとこまで落ちた早大仏青である。
あとは上がるしかないだろう。
五濁悪世のこの世にいっぱつ正法をおみまいしてやろうではないか。


笛ふけど踊らず

日テレのドラマコンプレックスで戦国自衛隊を見る。

 今回の戦国自衛隊は天下分け目の関ヶ原の戦い直前の戦国時代にタイムスリップする。
反町演じる伊庭は自衛隊としてのスジを通して(笑)、現地の紛争への不介入を徹するが、渡部篤郎演じる島村はこの時代に生きていくためには戦に積極的に介入しようと主張する。
 自衛隊がカンボジアとかに海外派遣されると現地の女性とハートフルな関係(笑)を創ることはよく知られているが、400年前の戦国自衛隊の諸君も、村娘と仲良くなったりして、現代にもどれなくても何とかなりそうな雰囲気をそうそうに漂わす(笑)。
 しかし、いざ戦闘となると仲間をまもるためにアタマに血が上っちゃって、現代兵器でばんばん戦国の人ころしまくっちゃい、子供まで誤爆しちゃう(まあ、イラクのアメリカ軍みたい)。そいでそのあと、反町も渡部もかわりなく自らが人を殺してしまったことに戦慄し、傷つく。

 そう、戦とは、所詮人殺し。汚いものなのよ。

 というわけで、現在の日本における自衛隊の微妙な位置ともあいまって、非常にシリアスな問い掛けをしてくるドラマであるのだが、反町が白石美帆演じるおせんと出会うシーンでは爆笑した。

 脅えるおせんに向かって、反町思いきりナイスガイ

「あやしいものではありません」

自衛隊服きて、バイクのって戦国時代に現れて、思いきり、あやしいがな。

 て、これ仏教ブログだったんじゃないか?

  何やってんだ、わたし。何で戦国自衛隊の評とか書いてるわけ?

 だって、仏教青年会の会合は開かれる兆しすらないんだもん。
 なんか「試験期間だから集まれない」とか、「暮れから人がたくさん死ぬので法事が忙しい」とかいろんな理由を聞いたようなきがするが、
私の予感では、試験期間が終わると彼らは実家にかえっちゃうような気がするな。

今、テレビの中では、開き直って歴史に名前をのこそうと檄を飛ばす渡部にむかって隊員たちは

「島村隊長についていきます」とか忠誠を誓っているが、

こっちは笛吹けど踊らず。


黒太郎一家の10年

午後のテレビでナベヅルをテーマにした感動のドキュメンタリーを見た。

「黒太郎一家の10年」(FNSドキュメンタリー大賞)である。涙ちょちょぎれました。

感動した私の話は長いが、ご損はさせません。最後まで読んでね。

かつて幕府はツルの捕獲を禁じていたため、ナベヅルは日本全国に飛来地した。しかし、明治維新以後、効率一辺倒の社会はツルを乱獲したあげく、ツルは激減し、いまや本土の飛来地は山口県の八代村一箇所になった。

なぜ、八代村だけにツルが飛来し続けているのだろうか。それは、明治20年代にさかのぼる。当時、この地域の領主がツルをとろうとしたところ、住民がそれに反対して、その対立を聞きつけた県知事が、ツルの捕獲を禁止する条例を出していたからである(なんとこれは日本初の自然保護条例らしい)。

そのような自然に対する意識の高い村であるため、「ツルの住めないようなところには、人も住めない」、と現在も村を挙げてツルをあたたかく見守っている。

ツルが飛来する冬の間は、ツルの食事場である棚田に人の出入りを禁止する。そして、監視小屋には必ず誰かががつめて毎日ツルたちの無事を一羽一羽確認する。近くの八代小学校の子供達も学校が終わるとこの監視小屋にきてツル日誌をかきつぐ。3月にはいってツルがシベリアに帰る時分になると、村中はかたずをのんでその出発の日を待つ。やがて、彼らはシベリアにむけて飛び立つ。その時、ツルたちは上昇気流にのるために輪を描きながら、しだいに高度をあげていく。それが村人に別れをつげているように見えるので、村中は歓声をあげてツルたちを見送る。感動的なシーンである。

 で、黒太郎というのは、このツルたちのボス。編隊を組んでシベリアに帰る時、先頭に立つリーダー鳥である。物語の主人公はこの一羽の雄のナベヅルである。

 ある年彼は妻と二羽の雛とともに八代村に舞い降りた。そしてあけてシベリアに向けてテイクオフの日、19羽のツルたちが飛び立った後も、黒太郎一家はとびたたなかった。上昇気流が弱く、飛行テクニックのあまい、彼の子供が上れないことがわかっていたからである。村人たちは残った四羽の黒太郎一家を心配そうに見守った。

 するとである。子供たち(人間の方)が歓声をあげた。

 彼らが指さす空の彼方を見ると、そこには先にとびたった19羽の姿があった。黒太郎一家を心配して、もどってきたのである(一度出発した群れが戻ることは普通ない)。翌日、黒太郎一家四羽を含めて総勢23羽になった群れは今度はいっせいにシベリアにむけてとびたった。
 またある年、黒太郎は一人で戻ってきた。そして数日遅れることして、彼の妻も舞い降りたが、様子がおかしい。妻は足を怪我していたのである。八代の村人は心配するが、足を引きずりながらも黒太郎の妻は必死で生き、二羽の雛とともに冬越しに成功する。そして、よく3月、群れはその黒太郎の妻にペースをあわせて彼女を先頭にしてシベリヤに旅立っていった。

 すばらしい。

 村人たち(+観光客)はこのようなエピソードごとににウルウル感動。ツルと毎日をともにしている八代の小学生たちは、とくに、ツルのこのような姿から「仲間を見捨てない。弱者のペースにあわせる」このような倫理観を自然と身につけていくことだろう。

 そして、まだまだ泣かせてくれます。
 黒太郎は半年後、再び八代にもどってきたが、足の悪い妻ツルの容態は悪化しており、しかもその冬は雪の多い極寒の日がつづく。座り込んで吹雪にたえる妻のそばで、黒太郎は心配そうにたちつくす。そしてよく3月、シベリアへの帰還が近づいたある日、妻は忽然と姿を消す。長い帰還旅行に耐えられないことを自覚した妻は、群れのお荷物にならないように自分から姿を消したのだ。

 黒太郎が悲しい声で妻を捜し続ける姿には、見る人誰もが涙ぐんだ。群れがシベリアにとびたっても、黒太郎と二羽の雛は妻であり母であるそのツルをさがして三羽で八代の森を探してまわる。何日もそれを繰り返した後、観測史上もっとも遅くに黒太郎はシベリアに飛び立った。
 泣けるではないか。
 これを見て育った八代小の小学生が、長じて後、配偶者を殴ったり、子供を虐待するようなド外道に育つことはまずないだろう。
 八代の村人たちは、ツルを保護しているのではなく、ツルに逆に支えられているのである。
これはまるでリチャードギアの名言「わたしがチベットを救おうとするとき、われわれが救っているのは人類が敵・味方なくむつみあう可能性を救っているのです」といった言葉に通じる。

 これいっちゃおしまいだけど、私は先生と言われる身分だが、ぜんぜん子供たちのお手本たりうるような人格者ではない。おそらく親とか言われている人も、こういうご時世なので、子供の手本となるような立派な生き方をしている人は少ないだろう。
 親であれ、教師であれ、僧侶であれ、本来人格者でなければならず、また、権威あるべきものたが、みな「らしく」なくなっている今、人間界に子供の倫理性を育てることのできる手本はもはやほとんど存在しない。

 で、こんな大人がいくら口で「弱者を大切に」「いじめはいけません」とか言っても、言ってる当人が喧嘩したり、毒づいたり、てかがみもって女子高生のスカートの中のぞいていたりしては、その言葉は誰の心も動かさないどころか、逆に反感を買うだけである。

 こう考えてみると、へたな倫理教育やるよりも、日本全国の小学校で野生のツルを餌付けした方がよほどましだということが分かる。
 ツルの生き方を目の当たりにすることによって、生きることの厳しさ、その中での家族愛などを学ぶのである。自然界の子別れの儀式とかを見てそだったら、はたち越えても親元でひきこもるような子供も、それを認めるような親も存在しなくなるだろう。ナベヅルを誘致するために、環境に気を遣うようになるから、環境政策にも利す。

 ダブルにオトクである。誰か、文部省に提言してくれ。 

 余談であるが、この黒太郎のドキュメンタリーとったディレクターに対して、ノンフィクション作家の吉岡忍が「ドキュメンタリーは社会性があると評価が高いから、ツルを背景において、村人の生活に焦点をあてた作りもできたのではないか」ととうた。

 すると、このディレクター、十年の間、もちろん、ツルと共生する村人の映像もずいぶんとった。しかし、作品をつくるためにはそのほとんどを削って、黒太郎一家に話の筋を絞ったといういう。

 削ることを知る監督だったから、良品をつくれ.るのだ。キング・コングの監督に是非、見習ってもらいたいものである(昨日の記事参照)。


フタの閉まらない松花堂弁当は美味か

 三コマの教場試験をおえ、学生たちの血と汗と涙のつまった答案用紙400人を背負い、キング・コングをみにいった(どういう文脈や)。

 われわれ夫婦は、とにかくあらゆるジャンル映画を見てきた。でも、夫婦二人で共通して楽しめるのは、良質の社会派の映画くらいで、二人の好みはじつは対極。

 ダンナはヨーロッパの芸術性の高い恋愛映画が好き(と、ここまで書いたところで、ダンナから良質の恋愛映画であれば、アメリカンも許すとの一声が。長々とアメリカの恋愛映画について語りだしたので、放置)。しかるに、わたしは、恋愛ものは全然ダメ。男女が秘められた思いを胸にウジウジしているのを、わざわざ大きなスクリーンで1800円という大枚はたいて見る理由がみつからない。

 一方、わたくしはパニックもの(無意味に巨大なイカとかタコとかヘビとかが襲ってくる古典的なヤツから、最近のエイリアン、災害ものまで幅広く)がすき。
 何といっても、大きなスクリーンでみがいがあるし、CGの制作費がかかっただろうから、入場料を払うのにも抵抗はない(せこい)。
 
 で、キング・コングである(何が、で、なんだ)。

 この映画には一見すると、われわれ夫婦のツボをおさえる要素がてんこ盛りではないか。

 まず、巨大なゴリラがでてきて暴れ回るといえば、おお、パニック映画ではないか。さらに、この映画の本筋は、心優しき金髪美女とゴリラの恋物語にある。種の相違に目をつぶれば、一応、恋愛映画である(笑)。

 しかも、二人が共通して好む社会派の要素もある。大恐慌の荒んだ世相を背景に、文明と野蛮が出会うことによって、両者が不幸になるという、文明の野蛮さを告発するストーリーは、わたし好みでもある。

つまり、この映画は完璧なはずであった。われわれ二人にとって。

 でだ。たしかに、上の三つは、申し分ない映像化がなされてました。俳優もいい味だしてたし、お金もかかってました。でもね、一言言わせてもらうとね。

 ながい。長すぎるんだよ。三時間越えるんだよ。

 なんで長くなるかといえば、本筋と関係ない要素が多すぎるから。

物語の狂言回したる映画監督カールにまつわる部分は「エド・ウッド」風、
リングの主演女優と戦場のピアニストの主演男優の船上での恋物語は「タイタニック」風、
座礁シーンは「十五少年漂流記」風、
野蛮で奇怪な先住民との戦いは「インディ・ジョーンズ」風、
恐竜大決闘シーンは「ジュラシック・パーク」風、
ショー・タイムの描写は「コットン・クラブ」風、
探せばもっとでてくるさながら映画の歴史のてんこもり。

 一作にありとあらゆるものをつめこみすぎて、松花堂弁当のフタがしまりません。一つ一つが美味しい料理でも、ここまでくると胸がやけます。
 化粧があつすぎると、どんなに美しい女性でも、屋根の上の魔よけに近くなっていくように、昨日のキングコングはある意味すごかったです。

はっきりいいます。キング・コングはゴリラと金髪美女が心を通わしてくれれば、あとは何もいらないんです。それ以外のものはそれ以外の映画でみればいいんです。

商品を多機能にして商品の売り上げをのばそうとする試みが往々にしてうまくいかず、いろいな無駄な機能を切りすてシンプルでスタイリッシュにした方が、売れるということは、巷でよくある話。

つけたすことは誰でも思いつけども、不必要なモノをきって完成形に近づけることは案外難しい。

かけだしの学者さんの論文ほど、知っていることをすべててんこもりにして論旨が不明となるものが多い。

わたしがかけだしの学者さんだったころ、ダンナが「論文は、問題提起、自分の主張を裏付ける三つの論拠(なぜ根拠が三つなのかそれについては有効な説明はなされなかった)、結論、この三つがそろっていればいい。文飾は必要ない。」とはよく言ったものだ。

ある意味真理だと思う。真理は得てしてシンプルなのである。
力学上むだがない橋は姿も美しい。
アタマのいいプログラマーほどシンプルなプログラムをかく。

シンプル イズ ビューティフル。
 
 


盛者必衰の理を示す

あのホリエモンが塀の中へ。

 ライブドア主宰の学園祭的祝祭期間は終わり、祭りのあとの倦怠感が世を支配している。

 チベット仏教徒としては、ウキヨの諸行無常、盛者必衰の理を目の当たりにして、感慨深いものがある。

 かつて、学生の一人が在学中に株をやって結構な収益をあげていた。そして、ご多分にもれず堀江社長を尊敬していた(ちなみに、私のことはなめきっていた)。わたしは、それとなく「あぶく銭はまともに働く意欲をそぐ。あぶく銭とひきかえになくすものの方が大きい」と言い続けたが、権威のない教師ゆえ、聞き入れられることはなかった。

 報道でみるに、ホリエモンは「金で人の心は買える」とか「女は金についてくる」みたいな発言をしていたらしい。

 すべての人間がお金で動くわけではないから、これが真理であるわけはなく、ただ、彼の周りには お金で心を売るような人、お金で動くような女しかいなかった、ということであろう。

 そのような生き方をしているから、そのような生き方をする人しか群がってこない。悲しい話である。

 わたしはホリエモンを応援した人々すべてを批判するものではない。体質改善をする能力も意志も失った既存の腐った体制が、ホリエモンの登場によってある程度の危機感をもったこと、世の閉塞感に風穴をあけたことも事実だからである。

 しかし、応援する側がいかに夢を託そうとも、虚業で財をなした人間に実業の世界を変革する能力はなかった。

去年暮れのライブドアの忘年会の映像でホリエモン、

「世界ナンバーワンの会社をめざすぞ」と連呼していた。

わたしは彼に限らず、「一流」とか「ナンバーワン」とか、「上」をめざすとか口にする人には、かねてからうさんくさいものを感じてきた。

 評価というものはそれぞれのジャンルで信用なり実績なりを積み重ねてはじめて、まわりによって後から捧げられるものであって、自分から口にするものではない。あさましい。

 また、ナンバーワンの内容を、数字という「形」のみに矮小化していることにも精神の貧困を感じる。

 しかし、ホリエモンは今すべてを失った。物質の過剰によって忘れ去られていた精神の貧困に彼は気づくだろうか。

 


博士の頭の中の消しゴム

このタイトルはむろん記憶喪失大ヒット映画『わたしの頭の中の消しゴム』と『博士の愛した数式』の本歌取り。「博士」とはむろん私のことであーる。

話は今朝にさかのぼる。

「ぴよ! ぴよ!」(訳 今朝はインゲンの差入れがないぞ、早く表に出せ! )というごろうちゃんの朝鳴きにどつかれるように、わたくしはベッドから起きあがった。

 そして、今やっている研究関係の書類をベッドと壁の間からひきあげて、ごろうちゃんの部屋に向かった(寝る前に読んでいた本や書類は、朝方になるとだいたいここに落ち込んでいる)。

ごろうちゃんをだして、朝ごはんを一緒に食べて、メール・チェックをしてのち、さあ、お仕事と、パソコンの前にすわる。
具体的には先ほどベッドのすきまからもってきた書類に入れた訂正をパソコンにうちこもうとした。すると、あの二階からもってきた書類がない。あたりを探し回るも、やはりない。

この捜索過程において、自然と床の上にある書類を片付ける形になった。そうなると目的物ではないものの、同じようにかつて紛失したと思っていた数々の書類がみつかる。また、途中までチェックして、チェック時点にボールペンをはさんだまま、チェックのとまったチベット語史料が複数発見される。

「あーこのボールペン探していたんだ。チェックの続きもやらなきゃなあ」などと詠嘆しつつも、捜索はつづく。

みつからない。ごろうちゃんをカゴから出した時にカゴの周辺においたのかとなんども小鳥部屋も見るが、やはりない。

ついに、ダンナが出かけるとき自分の書類とまちがってもっていたに違いない、と思って諦めようと思った矢先(ちなみにここまでで三時間経過)、ふと

「人を疑う前に自分を疑え」という万古の真理とともに
「まさかあそこでは」という思いがよぎる。

「まさかね~、たしかに手にとって階下までもってきたもんね」と自分に言い訳をしつつも、体は二階へ自然とむかう。

で、ありましたよ、書類。

ベッドと壁の間に。

こりゃ、単なる物忘れとか認知症より、はるかに始末がわるい。アイデンティティの崩壊だよ。してもいないことをしてると思いこんでるのだから。これが悪事の記憶だったら、サイコパスだよ。

動揺をしずめるため、書類を手にとりパソコンの前につく。

そうだ、さっき久しぶりにみつかったボールペンでもメモに使うか、と見回すが、ない。短い再会であった。彼女(ボールペンに性別をつけてみました)はふたたび無明の闇に消えていったのである。

わがやのなくしものはこうして、カオスの中から「かつ消えかつ浮かびて、久しくとどまりたるためしなし」。

最後は『方丈記』でまとめてみました。


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